波打つ、放たれる



 つるべを下ろしてゆけば
 ひんやりと水が泡立ち答えるだろう
 胸の高さになれば共振しあう
 秘密の香
 はばたかない影は水の底へといきたがる

 暗い水面に花を落とします

 裏庭の
 煉瓦の壁を背にして
 咲いていた花
 夕焼けも差し込まなかった隙間の
 意志のある

 そういう花を奪っては
 秘密を与える
 指先から放たれる瞬間の
 体温の嘆き

 爪は短くそろえてあります
 もう音楽もやめてしまったし
 楽譜はだんだんと読めなくなる
 先のない未来の突端がぐらぐらして
 美しいものから捨ててゆく
 おぞましいものばかりが
 足首を支える

 波打つ音を
 耳を澄まして聴きました

 海ならば安らぐだろう
 子守唄のように眠ることができるだろうに
 波打つ音は
 足元のずっと下なのだ
 地団太踏んで泣きわめく
 こども心のもっと深き地の底なのだ
 枯れ葉の間をこそこそと
 うごめく昆虫の腹のはるか下なのだ
 だからじっと耳をこしらえる
 水滴を集めるようにして

 乾いた桶につま先立ってするすると

 病葉が
 捨てられた手紙のように
 べったりとコンクリートにはりついている
 雨はもうしばらく降りません
 流すものはもうありません
 誰の手紙か気になっていちいち拾ってみても
 名は溶けて
 あるはずのない名は溶けて

 踏みつけて歩きます
 こなごなにこなごなにこなごなに
 枝には若くて健康な葉がたくさん
 熱風に戦いでいるではないですか
 雨はしばらく降りません

 熱風の温まった水に足を投げいれ
 水遊びをした娘は
 十六になります
 枝につかまり風に戦いで
 流すものはもうありません


 呼び合うことのなかった影は
 地の底へといきたがる
 秘密の香
 たちのぼりたち消えて


 指を放れた瞬間にひとつのこらず