鉄の雨


真水のにおいがする噴水のそばを通りぬけて
雨の中をあるく
つないでも気ままにほどけていく時間を
ポケットの中でつよく握り締めてみた

住み慣れた場所は
かならず古びた名前が宿っていて
わたしだけのものじゃないから
かすれそうになりながら
わたしを表すもののなまえはどこにあるんだろう

鞄の中の文庫本
安かったサンダル
胸で流れやむことのないピアノ曲
書いては捨てた手紙

誰でもないわたしを
のぞむひとの想いが雨の中を泳いでくる
足の指が並んで濡れていた記憶
一人でさす傘のなかを歩き
水のにおいに触れていると
もろもろの痛みがわたしの傘にはいりたがる
焼け付く雨粒を怖がっているの
こんなにただ哀しいだけなのに

真夜中に樹木の眠る頬を撫で
あめをゆるし
ひとをゆるし
じぶんをゆるして
長い夢をみる

届かないかもしれない日々の先へ
真水はひたひたと沁みこんでいき
においは記憶される
葉を揺らす闇のしたたり
あの場所を知っているよ
自転車に乗って一度きりの風に吹かれた
花火のように根元で打ち上げられたあじさいが
きれいだった
においは記憶される
目の前にはなつかしい背中があり
こっちだよと導いた


雨が上がり傘をとじれば
鉄の色をした空が溶け出している
わたしにむかって溶け出していくなにもかも
熱く飲み込んでやがて急速に冷えて固まっていく

たとえば傷口に熱く溶けた鉄を流し込んだら
どんなかたちの鋳物ができるだろうか
わたしの内側を知ってもらいたい
汚れて寂れた内側のにおいをもっと嗅いで
記憶して
雨は生臭くずっと幼い頃のにおい
もう思い出してはいけないにおい

頬に焼き付ける鉄の雨
真水の噴水のなかをじゅうじゅうと湯気をたてて
降り注ぐ(気がする)
知る人知らない人雨上がりのうす曇りのなかを
止まらない涙のようにぼたぼたと
垂れ堕ちて
焦げ付きながらそれでも
わたしをのぞむひとの想いが向かってくる