この世のわたし



そのむかし
わたしが顔面マヒになったとき
とある耳鼻科の若いやぶ医者は言った
「100%元に戻るとは思わないでください」
わたしの顔は
左半分しか悲しい表情を作れなかった
ひきつり曲がる唇は
ストローもうまく吸えなかった

点滴と投薬だけの病院に見切りをつけ
人から勧められた神経内科を訪ねた
「大丈夫 ちゃんと治りますから」
優しい目の年老いたS先生はそう言って
わたしの首筋に注射を繰り返した
長い針はふかくふかく
わたしののっぺりとした失望にまで突き刺さり
すこしずつ希望の液体を注ぎ込んだ
わたしの顔はやがて表情を取り戻し
半年ほどの針治療のあと
現在の顔に至る

「100%は元には戻りません」と言った
あのやぶ医者のことばには真実があった
鏡に映る自分は
今までの自分とは違うのがわかる
違っていると夫も言う
けれど
あのS先生の大丈夫という力強い言葉は
わたしの心理状態をおおらかに回復させ
筋肉や神経にも絶大な効果をもたらしたと思う
もう少しはやくS先生にみてもらっていたら
そんなことを考えてもみたけれど

少し曲がっている唇も
今はわたしだと感じる
唇と連動して小さくひきつるまぶたも
今はわたし

一生治らない顔のままでもちゃんと面倒みてやるから

あの日やぶ医者の帰り道
サングラスをかけた無表情のわたしに
夫は笑ってそう言った
そう言ったんだ

前世でわたしが誰と結ばれていたのか
後世では誰と愛し合うのか
知る由もない
わたしの魂は答えない

それでも

この世を共に生きるのはこの人なんだ と
あのとき
確かにわたしは決めたんだ